プラウザが固まって、せっかく書きかけた日記、消えてしまった。たぶん、1000文字くらい。
なんか強引な理論を振りかざしていてつっこみどころ満載の面白い文章だったので、すごく惜しい。

たぶんいまならまだ再現はできるけど、そんな気力はないです。

というわけで、まあ大雑把に再現。

まず前回日記が微妙に痛かったかもしれない&そのまま放置してしまったことに対するフォローのつもりで文章を書き始めて、別に前回日記で落ちたわけでもなく、むしろ文章を書きたい機運が高まりすぎて一種の麻痺状態に陥ってしまったのだと釈明する。

文章を書きたいときほど書けなくなる奇病、と定義して、その原因を箇条書きしてみる。

原因1、考えすぎる
原因2、考えが飛躍する
原因3、バランスが悪い

それぞれの原因の具体的な説明。
1は「書きたいこと」「テーマ」「題材」「技法」くらいでとどめておけばいいのに、「そのテーマの普遍性と現代性」「それを自分が書く意味」「そもそも自分にその力量があるか」とかまで考え始めてしまうから問題だ。としている。

2は具体的に文章化しようとする過程の話で、わたしの文章は基本的に考えが飛躍するので、その説明を付与しなければ読者を置き去りにする、ということをわたしは知っている。何気なく書き始めた題材からどんどん考えが飛躍していくので長文化していき、1の考えすぎる癖まで顔を出すので、飛躍が飛躍を生み、説明の文章を書いているうちにまた考えが飛躍する。わたしはたぶん、終わらない文章というのを書けると思う。

3は内的思考偏重型ということ。興味のあることにしか興味を示さないわたしは、わかりやすくいうと、簡単に寝食を忘れて、社会的な枠組みから外れていってしまう。
社会的な枠組みというのは、たとえば「時間とか予定」とかでもあるけれど、深刻になってくると「内的言語を社会的にパスする表現として翻訳するという内的翻訳機能」まで麻痺してしまうので厄介だ。

…と検証してみて、すごく自分的には納得がいったのだけど、これは読んでいる人には何がなんだかさっぱりわからないだろうと思う。
この文章は、まだ翻訳されてないから、だ。
要するに、一番最後に出てくる内的翻訳機能をほとんど働かせないで書いてあるから。

翻訳するのに一番簡単な方法は、具体的な体験の例を挙げること。
たとえば、前回日記を書いてからの空白の間のわたしの迷走っぷり。

文章を書こうとパソコンを立ち上げ、何気なく、お気に入りの人のサイトの文章を久々に読破してしまう。
こんなすごい文章がすでにあるのに、わたしがいまさらなにを書く必要があるだろう、と考え始める。
怪盗という存在はルパン以前にありえなかったが、ルパン以降の作家の不幸は、アルセーヌ・ルパンがいれば怪盗界は安泰ということだ。探偵小説というジャンルでみれば、まだ希望はあるかもしれない。すくなくともホームズ以降に探偵が要らないとは思えないし〔まあこれは個人的な好みの問題だけど〕。
ぢゃあ、夢野久作はどうだ。わたしは夢野久作が浅いといった芥川的な危うさを抱えている。それで彼を超えることなんてできるはずがない。だけど、夢野久作が描いた狂気、それは何の説明もなしにわかる。それならばわたしは夢野久作以降の人間として、夢野久作を踏まえた作品を生み出す可能性を彼から与えられていることになる。

とまあ、簡単に書くとこんなかんじなのだけど、ここに、考えの飛躍が入ってくるので、思考の分量としてはけっこうとんでもない。絵画との対比を考えたり、哲学や心理学も入ってくるのでもうごちゃごちゃだ。
段々に思考は直感的になっているので、言葉を失っていく。
クレーの絵は、今でも十分に現代的だけれど、絵という表現技法をはみ出してはいない。フォビズムとかキュビズムみたいに要素を抜き出したような表現も絵画という枠組みの中で行われているから安定感を失っていないのだ。
わたしの「退廃芸術」は、どこまで翻訳するべきなのだろう。

絵画はまだいい。言語という便利なようでものすごく厄介な記号を媒介としなくていいのだから。
わたしはたとえば日本語で書く、日本語を読める人なら一応わたしの書くことは読める。でもわたしが書きたいことをわかってもらえるわけではない。
コトバというのは便利な記号だけど、概念には個人的な経験や表象が付加されているから、本当は限りなく誤訳が繰り返されていると思っていい。

たとえば、きれいなひととうつくしいひとというのは置き換えが可能。だけど、わたしのなかではこの場合はきれいを使う、という明確な基準がある。さらにそれは、その表記、「キレイ」「きれい」「綺麗」「奇麗」のどれを選ぶかについても徹底した基準がある。だけど、それは所詮ローカルルール。

綺麗とか美しいは極端に一般化されているから厄介だけど、一応、共通の定義がされているような学術用語とかでも、ひとによって捕らえ方が違うから意外と侮れない。

というのも、どうもわたしには気に入った概念やタームや言い回しに固有の心象風景を重ねる癖があるからだ。
で、一言で説明できちゃうと思ってつかって、え?みたいな反応をされることが多い。

それって、○○みたいなかんじですね、といって、それってなに?と問い返されることが最近多い。
ストックホルム・シンドロームとか、吊り橋効果とか、通じなかったな。ピグマリオン・シンドロームとかドップラー効果くらいならまだ通じたのかな。

もっと世間一般に流布していることば、たとえば「ニッチ」とかだって、「=すきま産業」としてしか捕らえてない人は多いだろう。
わたしは前に、「ニッチにはまって歌をうたう」という詩を書いたことがあるけれど、ニッチ=経済用語の人には、「すきま産業にはまる? 歌?」という誤変換がなされるだろう。わたしはニッチといえば語源からの連想で、中世の石造りの修道院の薄暗く湿った廊下の壁のくぼみのヴィジョンを勝手に作り上げているので、ちょっとしたくぼみを見つけてはそのヴィジョンを思い出してきて愉しんでいるのだけど。

それで、よく知られている動物の例を考えてみた。
1シュレーディンガーの猫
2ライカ犬
3ヤマアラシのジレンマ
4アルキメデスの亀
5パブロフの犬

これはわたしがよく想起する順番、1と2がほとんどで、あとはあまり使わない。
でも、たぶん世間的には5を使ってくれたほうがありがたいだろうと思う。