みつけた鍵を手掛かりに通しに臨み、初めて、芝居全体を通して圭子さんとして生きることができた。
その結果、演出が求めているかたちとはまったく違った行動に圭子さんは出てしまったのだけど、そこにはたしかに生があった。わたしの圭子さんはそう行動するのだ。演出が圭子さんをやったら違う行動をするのだろう。違いはそれだけ。
怒られるかと思ったら、褒められた。演出も真実があればいいのだと思う。それを見抜く目は持っているのだ。それが信じられることは大切。
わたしはわたしのやり方で、わたしの圭子さんとして生きる。やることはそれだけ。
終わったあと、見にきていた女優さんたちに、
「普段からあんなにトロいひとなのかすごく気になりました」
と云われる。
わたしの圭子さんが少しずつ育ってきている証しみたいで、とてもうれしい。
公演までに圭子さんがどこまで育ってくれるのか、愉しみになってきた。
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