T.A.t.U(タトゥー…大文字小文字少し違うかも)のアルバムを買った。絡み合ったりキスしたりのPVでセンセーショナルな話題を呼んでいる、ロシアの女の子二人組。
PVが可愛くて気にいっていて、それで買ってみたのだけど、あの絡みは話題作りのための戦略なのだとばかり思っていたら、アルバム全体がそういうコンセプトで作られているのだ。驚いたけれど、とてもドラマチックで気にいった。
「わたしたちは愛し合っているの、もう離れないわ」とか、「みんなが変な目で見るの。わたしたちは狂ってしまったのかしら?」とか、「ふたりは誰にもつかまらないわ。このままどこまでも手をとりあって逃げるの」とか、ひたむきな情熱とあどけない愛らしさがとても素敵。ロシア語が入ってくるところも好き。

「同性の恋」(明治大正期に流行。心中事件が多発し、社会問題に)という少し古風な概念は、たぶんに日本的なものだと思っていたのだけど、これを聴く限りそうでもないらしい。確かにギムナジウムの少年愛がおおっぴらに受け入れられてた社会だもんね、欧羅巴も。
そんなことを考えつつ、ずっとまどろんで過ごした。

お休みの日には何もしたくない。意志らしい意志も生き生きとした感覚も持たず、わたしは名前も持たぬ存在に成り下がる。「倉沢翠」という名前を持った存在として活動しているときの活発さの、反動みたいに。
希望も展望も過去も未来もない。秩序も連続性もない。そんな曖昧さの中に閉じこもっている。
明日の予定を聞かれても、昨日の約束をいわれても、だからちっともピンと来ない。
「明日のことなんて分からない。明日のわたしと交渉して。」とか「そんなの知らない。昨日のわたしと今日のわたしは違うもの。」とか云って、相手を困らせてばかりいる。
予定が埋まってゆくのが怖い。この日は学校とか、この日はお出かけとか、その日にわたしが生きていることが当たり前みたいに決まってくるのがうまく受け入れられない。生きていたとしても、同じ存在だとはとても信じられない。

みんなは明日のことを考えて行動する。体力を温存したり、早く眠ったり。
わたしにはそれができない。いつもその瞬間の気分や衝動に従ってしまう。
それはわたしが社会人ぢゃないせいだと思っていたのだけど、それ以前にわたしがわたしの普遍性を信じていないせいなのかもしれない。