声に出して文章を読む その2(下のつづき)


私は朗読が好きだ。そのこと自体は私にとって真実だ。
だけど、『朗読』という言葉が適切かどうかはわからない。
分からないから、たとえばこう言い換えてもいい。
文字として書かれてある文章を声に出して読むことが好きだ。
あるいは、
文字として書かれてある文章を声に出して伝えることが好きだ。

『読む』なのか『伝える』なのか。
私の芝居の先生ならきっと『伝える』に拘るだろう。
『読む』ことも、そのための技術も、『伝える』ためのひとつの手段に過ぎないのだと。
でも、正直なところ、今の私はどちらでもかまわない。
声に出して読んだ内容が、結果的に伝わってくれればとても幸せだけれど、
伝えることそのものが目的とまでは言えないでいる。
むしろ、『読む』ことそのもの、『声に出す/音声化する』ことそのものが
今の私にとってはある種の快楽なのだ。

表現者たらんとするなら、それでは不十分なのかもしれない。
自分が楽しいから、気持ちいいから、ではなく、
その思いや内容を誰かに伝えたい、というところまでが求められるのかもしれない。

だけど、今の私は純粋に声に出して読むこと自体が楽しい。
これが私のやりたいことだと胸を張って言えるのは、
音声を云う表現手段を使って『伝える』ことではなく、その表現手段自体を楽しむことなのだ。
私が『役者になりたい!』ときっぱりとは言えない理由はこの辺にあると思う。
ナレーションや語り、読む仕事をやっていきたい。
そのことは自分でもとてもしっかり切なくなるくらいわかっているのに、
それがイコール役者ということに繋がらない。
まだ、私が舞台1本も終えていない段階だからだろうか。
やったことないものを、やりたいかどうかなんて分からないというだけだろうか。
それならいいのだけど・・・。
もともと私が舞台をやりたいと思ったのだって朗読のときにその経験生かすためなのだ。
だから舞台を終えてみて役者をやりたくなかったらどうしよう、と思ってしまう。
表現者として伝えることをやりたくない、向かない、ということになりはしないだろうか。

もしそうなら、そんな私が朗読者(肩書きは何でも)として一生やっていくことができるのだろうか。
こんなに好きなのに。
私の道ではないのかもしれないという不安・・・。
これは多分どこまでも私に付きまとうのだろう、私がこの道を目指す以上。
 
 
 

声に出して文章を読む その1


文明論の授業で、偶然先生の隣にいた私は朗読をすることになった。
これ(神秘主義の文章)は文学なので美しく読んでいきましょう、ということで。

朗読は好きなので、厭な気はしない。
照れくさいし戸惑うけれど、むしろちょっぴり嬉しいくらい。
ただ・・・
美しくとは云われたものの、あくまで授業の中での朗読だ。
どこまで情感を込めるべきかも分からない。声もわずかだが震えてしまう。
初見だし、アクセントが不安な部分も23ヶ所あった。
それでも内容に集中して意味を読み取りながら丁寧に読む。

夢のお告げに従って財宝を求めて長い旅をした男の話。
旅の果てに男は、別の夢のお告げを受けた人物と出会う。
自分はお告げなど信じないと男を笑ったその人物の夢の内容は、
遠い異国のある家の暖炉の奥に財宝が埋まっている、というもの。
そのある家とは、なんと男自身の家だった。男はその人にお礼を言うと急いで家へ帰った。
そうして暖炉の奥を掘ると、そこには夢のお告げのとおりに財宝が眠っていた。
つまり、財宝(知恵)は遠い異国ではなく、自分の家(自分の心)の奥に眠っている。
しかし、それに気づいて掘り起こすには、
遠い見知らぬ土地への長い苦難の旅を終えなければならない、というもの。

なるほどな、深いな、と思いながら読み終わってみると、
なんだか体が熱くなっている。ああ、私やっぱりこういうの好きだ。
そして、周りの反応が気にかかる。
なのに、一瞬、その場を覆ったのは沈黙だった。
ほんの数秒、だけどはっきりそれとわかる空白。
え??おとなしめに読んだつもりだけど、変に浮いちゃったかな?
逆にあっけなく早すぎて、意味が伝わってないとか・・・?
怖い。
興奮に火照った体の中を動揺が一気に駆け回る。

「すごーい、きれい! ほんとに素晴らしかった。ありがとう!」
次の瞬間、先生の言葉が聞こえてきた。
沈黙の後だけに、心底感心してくれてるように聞こえる。
「いい見本になりました。こんな風に読んでほしいの。」
先生の言葉には単なる労い以上の意味はないのかもしれない。
だけど、私はそこにこめられた賞賛を感じる。
そしてほんとうにほんとうに嬉しく思う。
さっき動揺した分、さらに体の火照りが高まったみたいだ。
あったかくなった頬が、自然に緩んでしまうのも分かる。
私がやりたいのはこういうことだ。この体の火照りがその証だと。
 
 
 

楽しやネットオークション


ネットオークションにはまっている。
ここ暫くネットから離れていたのが、真面目な大学生になって
頻繁にPC室に出入りするようになったのを機に覗くようになった。

きっかけは単純だ。
大学のPCでIEを開いたら初期設定でホームページがMSNのサイトになっていて、
そのオークションページを偶然開いて眺めているうちになんだか楽しそうに思えてきて
気が付いたら残り時間10分というアイテムを見つけて思わず入札していた…という。

怖いし、信用できないし、と敬遠していたのがそれまでの自分が嘘みたいに、
ほんとに手軽さで楽しくて、うまくすればかなり安く手に入れることができる。
そうしていったんはまってしまうと、アイテムによって終了時間がまちまちなので、
それにあわせて毎日のように覗くことになる。PCの前に座ったら、
メールチェックするのと同じ感覚/頻度でオークションのページを開く。
そのついでに新しい注目アイテムも見つけてしまったりなんかして、
延々とこのループは続くことになるのだ。
ある意味、非常に巧妙な恐ろしいシステムだといえよう。
  

……と偉そうに言ってはみたものの(確かにはまった経緯は上の通りなのだが)、
いくらクリックひとつで入札できちゃう~♪ようなお手軽システムであっても、
いくら毎日どんどん増えていくアイテムたちの無限ループ~♪があっても、

他ならぬ 【私自身】 が、
クリックしないことには、新アイテムをチェックしないことには、
ひとりでに何かが起ころうはずもないのである。


要するに自業自得ってことだな……。

(っていうか、これが結論…??? なんだかずいぶん後ろ向きだな。)
 
 

ヒトリゴタク へようこそ!!


文章が好きだ。
文章を書くのが好きだ。
言葉が好き。
言葉を集めるのも好き。
 
ことばがすき。
 
 
だけど、私は言葉を信用しきれていない。
 
言葉は共通概念であり、記号だ。
しかし、万人が全く同一の概念を有することはありえない。
辞書的な共通認識の上に、個人が+αとして持つイメージは無限だろう。
それが言葉の数だけ存在し、その選択や運用にまで絡んでくるのだとしたら。

どんなに懸命に言葉を練ってもそこにある誤差は埋めようがない気がしてしまう。
私にはそれが怖い。書くことすら怖くなってしまうほどに。
 
 
だけど、書くことはやめない。
危ぶみながら、おびえながら、
私は今日も言葉を紡ぐ。

いつか、
これが自分の言葉だと、胸を張っていえるように。
そして、独り善がりではなく、大切なことをきちんと誰かに伝えられるように。

信頼でき、納得のいく言葉を使えるようになりたい。 
 

ボーイズラブの講評


ボーイズラブの新人賞に出したのだけど、ダメだった。

講評

今回の新人大賞の審査では、小説・イラスト両部門ともに、第2回までの応募作品に比べて技術はあるものの、それを『受け取り手の心に響くもの』まで仕上げられていない作品が多いように感じられました。

【小説部門】に関しては、筆力はあるもののひどくテーマが重く、救いのあまりない作品が多かったように感じられました。シリアスであることが低評価になるのではありません。BLジャンルの作品として楽しめるかどうか、という点において、あまり注意が払われていない作品が多かったのです。B-PRINCE文庫は「読みたいBLは、書けばいい!」というキャッチを掲げて作品の募集を行っておりますが、執筆者の『書きたいBL』は、果たして『読みたいBL』なのか、客観的になって推敲するのも大事な事かと思います。

うーん、落ちるわけだ!
わたしの小説はとにかく暗いし。

完全に出すところ、間違ってしまったみたいだ。

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