(1からのつづき)
そうやって歌うことで、わたしは状態の悪い自分から、”雑炊つくる人”にシフトチェンジをしようとしていたのです。
ところが、電話の主の家についた途端、怒鳴られました。
「夜中なのに近所迷惑でしょ!」
しばし怒られ、更に追い詰められたわたしがそれでも介護人としての役目を全うするためにはやはり歌に縋るしかありません。
雑炊を作る傍ら、こっそり歌をうたい、なんとか”雑炊つくる人”になりきろうと務めます。
ところがその歌声さえ聞きとがめられてしまいます。
「具合の悪い人がそんな歌聴きたいと思う?」
歌が禁止されました。実家にいた頃、お手伝いのたびに歌が禁止されたことなどもフラッシュバックしてきます。
そうなってくるともうどうしようもありません。
食事に毒を盛る空想や魔女の鍋で妙薬を作っている振りや、あらゆる空想を引っ張り出しては来るのですが、うまく支えになってくれません。

それ以上に、自分の不甲斐なさが身に沁みます。
どうして弱っている人のために食事を作ってあげるという(わたしが普段やってもらっている)行為そのものにそこまでの困難を覚えるのか。歌とか空想とかの助けを借りないとできないのか。
やっぱりアタッチメント不足なのではないか、人間としての基本的な愛情に欠けるのではないか、そんなことばかりが考えに浮かびます。
マッサージして!との言葉に背中をさすりながら、ちっとも行動を意識的にできない自分にどうしようもない焦燥感を感じます。どうにもこうにもこの世の中に居たたまれない感じ。
相手がうつぶせになっていて見えないのをいいことに、涙ばかりがぽろぽろと溢れていきました。

相手がとにかく不機嫌でたくさん文句をぶつけて来たのも災いしました。
文句に対する言い訳や自己弁護は一切しない、そう決めたのに、帰ろうとした直前、隠しきれないほどに大泣きしてしまい、問い詰められ、すべてはバレてしまったのでした。もっと早くに来られなかったのは体が動かなかったからだとか、歌っていたのは軽く考えていたわけではなく何とか現実に踏みとどまるためだったとか。
そして、また怒られました。云わなきゃ伝わらない、と。

わたしにとって、人(一般的とされる人)と当たり前に付き合っていく道はとても遠くて険しいです。
だけど、もう少し頑張らなくては。わかってくれようとする人もいるのだから。