私は朗読が好きだ。そのこと自体は私にとって真実だ。
だけど、『朗読』という言葉が適切かどうかはわからない。
分からないから、たとえばこう言い換えてもいい。
文字として書かれてある文章を声に出して読むことが好きだ。
あるいは、
文字として書かれてある文章を声に出して伝えることが好きだ。

『読む』なのか『伝える』なのか。
私の芝居の先生ならきっと『伝える』に拘るだろう。
『読む』ことも、そのための技術も、『伝える』ためのひとつの手段に過ぎないのだと。
でも、正直なところ、今の私はどちらでもかまわない。
声に出して読んだ内容が、結果的に伝わってくれればとても幸せだけれど、
伝えることそのものが目的とまでは言えないでいる。
むしろ、『読む』ことそのもの、『声に出す/音声化する』ことそのものが
今の私にとってはある種の快楽なのだ。

表現者たらんとするなら、それでは不十分なのかもしれない。
自分が楽しいから、気持ちいいから、ではなく、
その思いや内容を誰かに伝えたい、というところまでが求められるのかもしれない。

だけど、今の私は純粋に声に出して読むこと自体が楽しい。
これが私のやりたいことだと胸を張って言えるのは、
音声を云う表現手段を使って『伝える』ことではなく、その表現手段自体を楽しむことなのだ。
私が『役者になりたい!』ときっぱりとは言えない理由はこの辺にあると思う。
ナレーションや語り、読む仕事をやっていきたい。
そのことは自分でもとてもしっかり切なくなるくらいわかっているのに、
それがイコール役者ということに繋がらない。
まだ、私が舞台1本も終えていない段階だからだろうか。
やったことないものを、やりたいかどうかなんて分からないというだけだろうか。
それならいいのだけど・・・。
もともと私が舞台をやりたいと思ったのだって朗読のときにその経験生かすためなのだ。
だから舞台を終えてみて役者をやりたくなかったらどうしよう、と思ってしまう。
表現者として伝えることをやりたくない、向かない、ということになりはしないだろうか。

もしそうなら、そんな私が朗読者(肩書きは何でも)として一生やっていくことができるのだろうか。
こんなに好きなのに。
私の道ではないのかもしれないという不安・・・。
これは多分どこまでも私に付きまとうのだろう、私がこの道を目指す以上。